自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、
後ろめたく思う必要はありませんよ。サボテンは水の中に生える必要はないし、
蓮の花は空中では咲かない。
シロクマがハワイより北極で生きる方を選んだからといって、
だれがシロクマを責めますか。— 梨木香歩(2001).西の魔女が死んだ.新潮社 より —
防災ガールさんの下記の記事を読んで、感じたことを。
http://bosai-girl.com/2014/12/22/防災が広まらない理由/
最初に感じたことは「高速道路と一般道」です。あぁ、防災ガールさんも高速道路に入ってきたんだな、そこで競ってきたんだな、と思いました。
運転する方は体感的にご理解いただけるかと思いますが、高速道路で100kmを出してから、一般道で30kmで走ると相対的に遅く感じます。本人は「周りはなんでこんなに遅いんだろう?」と思いますが、大多数の一般道の方からすれば「速すぎて危ない!」と感じます。
防災意識も車速も、相対的な感覚でしかないということです。
「自分が考える”防災”の行動や意識の基準に周りがついてこないから、防災は広がらないと感じている」ということです。広がっていると感じていれば、このような記事にはならずに、どれだけ広がったかに目を向けられるでしょう。
きっと、防災ガールさんの活動は誰もが認めてくださったのでしょう。素晴らしいことです。そんな私たちのアプローチがあるのに、広がらないからにはアプローチを受ける側に何か理由があるからだ、と。
いえいえ、理由は外側でなく内側にあります。具体的には、これまでどれだけの人が防災ガールのイベントに関わってくれたのでしょうか。何人がFacebookやブログにいいねをしてくれましたか。どれだけの人が、防災ガールさんに期待しているか、ちゃんと気付いてるでしょうか。
それでも「広がらない」と感じているのなら、参加してくれた方々は何だったのでしょうか。広がってますよね、確実に。ただ、真面目すぎるから、自分の想いが強過ぎるから、広がってないと感じてしまうだけで。
次世代型避難訓練なんておもしろいじゃないですか。1回のイベントに10名くらい(若者中心でしょう)参加してくれるなんて、すごいです。胸を張って「これだけ広がってます!」と言えるレベルだと思うのは、僕だけでしょうか。
「真面目すぎる」のは、防災に取り組む先生や学生にも言えます。一生懸命なのは分かりますが「そんなに飛ばしてももたないんじゃないかな」と思うことがたくさんあります。真面目度が高ければ高いほど、自分や周りに求めるハードルは高く鳴り続けます。「もっとやらなきゃ、あれもやらなきゃ」と。
防災(教育)に取り組む方は、もっとハードルを下げてはどうでしょう。
一人の人間でできることは、たかが知れています。防災(教育)に取り組むことは正しいことです。でも、電車で隣り合わせになった人は、それよりもっと大事なものを抱えているかもしれません。「私の考える防災」のハードルを、その人に押しつけても、お互い苦しくなるだけです。
防災の主役は「誰か」ではありません。ひとりひとりなのです。そして、誰にも自分のやるべきこと、やりたいことを選ぶ権利があります。誰かが防災を選んだように、誰かはドライブやサーフィン、お絵かき、登山、料理、スポーツなどを選ぶ権利があります。防災(例えば防災ガールのイベントとか)よりそうしたことを選んだ人を「防災意識が低い!」と責めることはできないでしょう。
防災イベントを企画して参加者が少なかった。いいじゃないですか、やったのだから。
やらなければ1人も参加しなかったのではないですか。
防災についての取り組みを理解してもらえなかった。いいじゃないですか、伝えたのだから。
伝えなければ理解する以前に知らないじゃないですか。
防災について広がらないと感じている。いいじゃないですか、広げていけば。
誰かが”広がらない”と感じていることと、防災に取り組む人間がやるべきことは、関係ありません。
防災ガールさんには「広がらない理由」なんて分かりきった、言い訳じみたことを考えて欲しくはないですね。そんなことは、はるか以前から自明のこと(少なくとも、防災に関わっている人にとっては)であって、考えるだけ時間と労力の無駄です。そもそも、広がらないから防災ガールなのであって、むしろ「どれだけ広がったか、あるいは広がりそうか」ということを見せて欲しいです。
僕自身も学生の頃は同じような危惧を抱いていましたが、たまたま借りて読んだ「西の魔女が死んだ」の冒頭の言葉で、気持ちが楽になりました。防災(教育)に取り組む人はもっと、自分自身を認めていいと思います。できなかったこと、できないことよりも、できたこと、やりたいことに目を向けてください。生業としている人間からすれば、ここはそういう世界です。
防災、特に活動している人に足りないのは「自己肯定感」かもしれません。やってもやってもキリがないので仕方ないことですが、その肯定感を外に求めず、外がどうあろうと自分自身は大切なことをしている、と認めて欲しいと思います。
【追記】学校の現場で例えたら・・・
「クラスの誰もが平均点以上にしないといけない」というのが「防災が広がらないと思っている人が防災が広がったと思う条件」だとしたら、「学校にすら来ない生徒が、着席して名前だけしか書かないけどテストを出してくれただけでもいい」というのが「僕が思う防災が広がったと思う条件」です。そして、僕はその生徒に「来てくれてありがとう、僕はそれだけでとてもうれしい!また、気が向いたら来てね」と伝えます。
そう考えると、東日本大震災以降での防災の広がりというのはかなりのものであるはずです。ただ、それらの変化はとても小さく些細なことなので、目に見えにくいだけです。そして、目に見えにくいだけであって、確かにそれは「ある」のです。
このブログを見ている方も、東日本大震災が起きたから、ここに辿り着いたという方も少なくないのではないでしょうか。防災に興味がなければ、ここまで見ようとは、思わなかったのではないですか。
・・・また1つ、広がりました。お付き合いいただいてありがとうございました!
100(災害による犠牲者を出さない社会づくり)を目指すために「全てを80以上にする」のではなく(正確には、そのために)、「0を1にする」。そして、1増えたことを素直に喜べる、防災に取り組む人がたくさん増えてくれることを期待しています。